福島県民は放射能汚染からの避難生活を
余儀なくされています。
自分も福島県に親戚がいるだけに、
なんともし難い複雑な気持ちです。
現時点2013年3月では、国際基準も日本の基準(法律)も
一年間に人体が受ける人工放射線量を
1ミリシーベルト以内にせよ
ということになっています。
しかし、福島県のみなさんは、年5ミリシーベルトの場所で生活しています。
2013年2月25日の読売新聞の社説
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130224-OYT1T01073.htm
(残念ながら、3月13日からこの社説は見られなくなりました、
どのような内容であったか知りたい方はご連絡ください)
は、「年1ミリシーベルトを見なおせ」と主張しているようです。
しかし、いくつがいいのか、それについては書かれておりません。
すでに年5ミリシーベルトで生活されている福島の皆さんに
感謝したり励ましたりする内容かと思いきや、
そうでないようにも読み取れます。
この読売新聞の社説について、
武田邦彦先生が意見を出されています。
武田邦彦先生は引用自由を明示されている方なので、全文を引用させていたたきます。
<<<< ここから引用
読売新聞・社説の評価
「genpatsuyomiuritdyno.83-(12:26).mp3」をダウンロード
長く尊敬されていた新聞の社説のレベルが落ちたことはよく言われることだが、ここは新聞の論説委員などの奮闘に期待したい。
ところで、2013年2月25日の読売新聞の社説は多くの人に強い疑問を抱かせた。読売新聞が「被曝は大したことはない。原発は再開すべきだ」と考えて紙面を作っていることは良くわかっている。
でも、情報に関する社会的公器であり、数々の優遇措置を得ている大新聞にはそれなりの社会的倫理が求められる。それは「意見は自由だが、事実には忠実」ということだ。特に日本の新聞は「事実」を国民に知らせる役割が強く、それだけに、読売、朝日、毎日などの大新聞は事実を伝えるという点でプライドを持ってもらいたい。
今回の社説での問題点は、「被曝の限度を上げるべきだ」という「考え方」そのものではなく、「その根拠とされている事実の整理と認識」にある。新聞は必ずしも中立でなくても良いので、読売新聞が「被曝はたいしたことはない。食品の安全は100分の1則でなくても良い。原発は再開すべきだ」という立場を取るのは問題がない。
ただ、取材体制、記者クラブの特権、大規模印刷設備などを有する情報企業としての「最低の倫理」があり、それは「意見は自由だが、事実から離れない」ということだ。それが「普通の国民や企業」とは違う「大新聞の倫理」である。
その見地から社説を見ると次の点が指定される。
まず第一に「食品基準が厳しすぎる」という記述だ。その理由として「ICRPの1年1ミリは「超えても直ちに危険としていない」ものである」という論述だ。これには2つの間違いがある。
(1) 日本は法治国家であり、日本の法律で1年1ミリが定められているのであり、ICRPで決まっているものではない。読売新聞が「日本には国民を被曝から守る法律がない」という見解ならそれを述べ、もし「法律がある」ならなぜICRPを持ち出すのかについて見解が必要である。
(2) 日本の基準、1年1ミリは「直ちに危険がある」ことをもって基準値を決めているのでは無く、少なくとも5年程度の被曝で、長期間にわたり障害がでないことを基準としている。だから「1年1ミリが、直ちに危険ではない」というのは日本の法令には何も関係の無い論理である。このような低レベルの論理を大新聞が使ってはいけない。
(3) 日本の食品安全はかなり前から「100分の1則」(危険と思われる値の100分の1を基準とする)が適応されていて、私の記憶では読売新聞もこの基準を支持していた。従って、被曝だけにこの原則を適応しないなら、その事を明示しなければならない。
(4) 日本の法令の基準は「外部内部合計して1年1ミリ」であり、現在の食品の被曝の暫定基準値は内部だけで1年1ミリであり、法令は守られていない。「多くの食品が出荷できなかった」とか「国際的に厳しい基準」というのと、「日本の法令を守れ」というのは違う。
また第二の問題点は、自然放射線、医療放射線と比較していることだ。これにも数々の事実誤認と論理矛盾がある
まず世界で1年10ミリシーベルト以上の自然放射線の場所があるというのは事実だが、そこに住む人が「日本人並みの健康を保つことができるか?」が問題である。
私の調査によれば、中国、インド、ブラジルのいずれもが平均寿命が低く、日本の昔のように「ガン」という病気すら知られていない場所であり、インドでは海上生活と陸上生活の区別がなく、ブラジルでは道路をコンクリートで覆って線量率が低くなっているが統計は混合しているなどの問題があり、「世界の高線量地帯が日本の生活のクオリティーを持っているか」の評価はない。
次に医療被曝は「足が腐ったから切断する」という場合も医師が傷害罪に問われないという理由と同じで、「被曝しても良い」ということではなく「病気を防ぐことと比較して被害が少ない」という判断を医師がした場合に限定される。
・・・・・・・・・
読売新聞が本当に被曝限度を上げても良いと考えているなら、まずは「なぜ、これまで1年1ミリだったのか?」、「世界は統一して1年1ミリだが、それを上げても貿易などに支障は無いか?」などより根本的なことを事実に基づいてしっかり議論しないと、反論する方もあまりに幼稚で反論が前進的結論にならない。
「結論ありき」で事実を歪め、論理が破綻しているのはまずい。読売新聞はその歴史と伝統を重んじ、日本をリードする新聞としてもう少しシッカリした論説をすることを期待する。これでは世間一般の議論以下であり、「・・・すべきである」などと大新聞が言うには品位を欠く。
(平成25年3月1日)
武田邦彦
>>>> ここまで引用
どちらもそれぞれの立場からの主張であり、
どちらも絶対的に正しいとも間違いとも言えないと思いますが、
自分としては、武田先生の意見が好きです。
私は、人工放射線を1年1ミリにした理由は、次と推測しています。
1,000ミリを一日から一月程度の短時間で浴びると
間違いなく数日以内に死亡することは過去の事故経験で判明している。
人間の最高年齢を100歳として、1,000ミリを100で割ると10ミリである。
さらに余裕をとって(いわゆる安全係数)10分の1として1ミリとしたのである。
そして、地球上の天然の放射線は平均で数ミリ以下(日本国は1ミリ前後)である。
人工放射線を1年1ミリにすれば、だれからも異論は無いであろうとと考えて
この基準が設定されたのである(推測)。
1年1ミリを毎時間に換算すには、24*365で割ることになります。
1/(24*365) = 0.000114 ミリ = 0.114 マイクロ
です。
比較的最近の
二本松市の放射線モニタリング 2012/12/1 11:30
http://fukushimaken.blog.fc2.com/blog-category-4.html#entry1837
などを見れば、
「道の駅ふくしま東和 0.515 μSv/h」
であり、
0.515 / 0.114 = 4.5 倍である。
つまり、年 4.5ミリの放射線量であり、
事故前が仮に1年1ミリだったとすると
事故後は3.5ミリも増えていることになります。
あの事故から二年近く経過してもさほど減っていません。
原発事故の始末が悪い点は、
その土地の水と作物を食することで
放射性物質を体内に蓄積する内部被ばくの
可能性があることです。
この点は医療被曝、航空機被曝とはまったく違います。
だから空間線量だけで判断してはいけないのです。
原発事故では空間線量を低めに設定しなければいけないはずです。
ちなみに「道の駅ふくしま東和」では、福島県民のみなさんは、
普通に日常生活を営んでおられます。
読売新聞が言うように
「ICRPは総量で100ミリ・シーベルトまでなら明確な健康影響は検出できない」
ということであれば、年 5ミリ程度の場所(道の駅ふくしま東和)に20年住めば、
総量で100ミリになるのです。
つまり明確な健康影響は検出できるようになる可能性があります。
これはすぐ全員が病気になるという意味ではなく、
病気になる確率の差が検出できるようになるという意味です。
千人いれば、だれかは、病気になるということです。
つまり今現在、福島県の皆さんには
年 5ミリ程度の空間放射線量の場所に
我慢して住んで頂いています。
しかも、今は、特段の健康保障も無しにです。
あの事故の日から、数十万人の県民が、
1ミリではない、この5ミリ程度の地区に住んでおられる事実があります。
日本の基準(法律)では人工放射線は 1ミリシーベルト以内であり、
法の下の平等という言葉もありますので、
福島県民の皆さんには、我慢していただいているという、実態があります。
私は、この5ミリが、日本での生活できる限界と思います。
ところで、
除染は、高校の物理と化学をまともに勉強した人なら、
現在の技術では放射性の無力化は原理的にできないし、
ただ汚染物質を削りとり別の場所に集めるだけの徒労であることは明白です。
それでもやってみせないと、現実を理解できない人が多いから
除染をやってみせたのだと思います。
そろそろ無駄な除染作業が何で、効果がある除染作業は何か
評価できる時期なので、作業を見直せばいいと思います。
最後に、
私には、これ以上汚染された地域(5ミリより多い)に帰れと言うことは、できません。
似たように感じる方もおられると思います。
ですから、年10ミリにすると言えば、異論が続出するのは当然です。
まして、年20ミリなんて言える人がいるのでしょうか。
<<<< ここから引用 >>>> ここまで引用
読売新聞の社説には、
「年1ミリ・シーベルトは法的に放射性物質を扱う施設の管理基準に過ぎないのに、この線引きを食品基準にも適用した。」という主張があります。
読売新聞は、全国民が口にする食品の基準と一部の専門家だけが立ち入る放射性物質を扱う施設の基準のどちらが厳しい管理にするべきと見ているのでしょうか。
読売新聞の社説は、「ICRPが考える1ミリ・シーベルトは、安全性に余裕を見込んだ数値で、合理的に達成できるなら、との条件も付く。」と言いますが、一つ申し上げたいのは、安全性に余裕を見込んでいなかったから、福島第一原発は地震で送電線が倒壊したり津波でディーゼル発電機が水没したりして全電源喪失となり、爆発したのではなかったのかということです。技術や健康の世界で安全性に余裕を見込むのは当然のことです。
読売新聞の社説は、「ICRPは、被災地の復旧過程では、年20ミリ・シーベルトまで許容し、可能な範囲で年1ミリ・シーベルト以下にするとの考え方を示している。」と言いますが、「ICRPは、復旧過程である以上、年20ミリの汚染地域にそのままずっと住め」とは言っていないと私は思います。
ペンは放射能で汚染されることは無いので風評被害はありません、年20ミリ・シーベルトにしたいジャーナリストは、ぜひご家族帯同で福島県の年20ミリ・シーベルトの地帯へ社屋を移転し、そこの水を飲み、そこの米を食べて50年間生活をされることをご検討願います。
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