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Feb 25, 2015

リバタリアンから見た夫婦別姓制度の可否

日本国内には、夫婦別姓制度を導入させたいという一派がいて、夫婦別姓は裁判所に憲法で認められた権利ではないかと訴えているという。

私の考え方は、リバタリアンである。
私の立場から感じることがあったのでメモしておきたい。

(ここにメモしておけば、夫婦別姓制度についてもうあれこれ考える必要が無くなるからだ。)

まず、リバタリアンというのは、経済的自由とそれ以外の自由の両方を追求する立場である。ただし、私は、完全な無政府状態や無秩序状態を目指す過激な立場ではない、国の独立と個人の安全を維持できる税金の安い小さな政府を目指す立場である。私のようなリバタリアンは民主主義を大切にする。

ところで、右翼、いわゆる保守のことだが、この右翼という思想は、自分の経済的自由を追求するが、自分はすでにお金持ちで権力があり十分に自由が効くので、他人の自由について無関心、あるいは制限しようとする立場である。

また左翼というのは、他人の経済的自由を制限し、(その方法は権力者が貧乏人に施しをするという名目でお金持ちから税金を集めるのだが歴史的に分配が公平になることは一度も無かったのだが)、経済以外の自由について追求するという立場、いわゆる社会主義である。

権威主義というものがあり、これは、経済的自由を制限し、さらに経済以外の自由も制限する立場である。戦後70年を経過した日本は、複雑化し硬直化した官僚権威主義である。権威主義が行き過ぎると異論を認めない全体主義となる。全体主義はもはや民主主義ではない。共産主義というのは社会主義の仮面をかぶった全体主義である。戦中の日本は、全体主義の一種の軍国主義であったことは誰でも知っている事実であるが、戦後の日本は右翼と左翼の間で綱引きをしているうちに官僚権威主義者に取り込まれた状態であるとも言える。


以上で確認事項が終わり本題に入る。

まず憲法と民法の関係から見てみよう。

現行の日本国憲法では、

第二十四条  婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2  配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

である。また、民法では(法律用語で「姓」を「氏」といっているので注意)

(夫婦の氏)
第750条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。

(生存配偶者の復氏等)
第751条 夫婦の一方が死亡したときは、生存配偶者は、婚姻前の氏に復することができる。

2 第769条の規定は、前項及び第728条第2項の場合について準用する。

ということで、誰がどう読んでも民法が憲法に違反するところはどこにも無い。

したがって、次の論点は、夫婦は、婚姻してもそれぞれの姓のまま使えるようにするかどうかということである。

夫婦別姓制度については、インターネットの掲示板に、多数の人が色々な意見や問題点(子供のためにならない、関連法律の修正が大変で無駄コストだ等)を上げている。そして利点が極めて少ない。その利点もまた現行の通名・芸名制度があるので利点ですらないと感じる。

現状の夫婦別姓裁判は、少数派が自己主張を訴えて多数派を作りたいと工作しているだけのことである。多数派工作は民主主義では許されている行為だ。そして、今のところ、夫婦別姓派は、世の中でも議会でも多数派ではないのだ。

夫婦別姓制度にこだわる人間は、左翼か共産主義に属すると考えられるが、左翼や共産主義の政党本部も夫婦別姓制度に特別な興味が在るわけでなく、その中の一部の少数派が、目立ちたいというだけの自己主張行動にすぎないと感じる。

マスコミは新聞を買ってもらって、テレビを見てもらってなんぼの商売だから、夫婦別姓が騒ぎになりそうならば取り上げるだけである。この騒ぎがマスコミを利することだけは確かである。

リバタリアンは夫婦別姓制度にどういう立場をとるべきか。

リバタリアンの目指す小さな政府というのは、少ない税金でやりくりできる政府である。制度が簡単になっていることが少ない税金でやりくりできる必要条件でもある。だから、今の民法の簡単な規定で十分と考えられる。つまり、「制度を複雑化して行政府の手間を増やすな」ということがリバタリアンの合理的意見である。

また、経済的自由とそれ以外の自由の両方の自由を追求するという立場で考えてみよう。結婚という制度は、法律で認められた制度であり、そもそも自由を束縛する制度である。個人の自由を徹底追求する立場の人であれば、そもそも自由を束縛するこの結婚をしないのではないだろうかという疑問が成り立つ。そして、法的な結婚をするかしないかは、日本国憲法に保証された個人の自由である(リバタリアンである私でも結婚している。私はこの結婚という制限が受け入れ可能な束縛と認識しているのだ。)

結婚という法的な手続きを取らなくても、男女が一つ屋根の下に暮らすこともできるし、子供を産むこともできる、同居する相方に財産を相続させることも遺言書でできる。まったくもって日本国憲法と民法は自由である。

だから、リバタリアンからは、夫婦別姓制度に特別な興味も関心も持つ必要がないという結論も成り立つ。


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