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Jul 11, 2020

中共(中国共産党)と日本政治のかかわり年表(2000年まで)

中共(中国共産党)と日本政治のかかわり年表

1958年05月 竹下登 第28回衆議院議員総選挙に島根県全県区から立候補 初当選 佐藤派に所属
1969年01月20日 リチャード・ニクソン大統領就任(共和党)
1971年07月09日 密かにヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官がパキスタン経由で北京を訪問
1971年07月15日 ニクソン大統領が中華人民共和国を訪問することを突然発表
1972年02月21日 アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問(8日間)
1972年05月    佐藤派の派内派として田中派が発足(竹下登も加わる)
1972年07月07日 田中角栄内閣発足、田中派(七日会)の正式旗揚げ
1972年09月25日 日中国交正常化(田中首相が中共の北京を訪問、日本から中共へODA開始)(第1回 6日間)
1974年08月09日 ジェラルド・R・フォード大統領就任(共和党)
1974年12月09日 田中角栄内閣総辞職、三木内閣発足(椎名裁定)
1975年        ジェラルド・R・フォード大統領がに訪中
1976年07月27日 ロッキード事件 田中角栄元首相逮捕
1976年12月24日 福田赳夫内閣発足
1977年01月20日 ジミー・カーター大統領就任(民主党)
1978年12月07日 大平内閣発足(田中角栄元首相が強く支持)
1978年12月15日 米中両国は1979年1月に国交を樹立することを発表
1979年01月01日 アメリカ合衆国と中華人民共和国の間で国交が樹立
1979年12月05日 大平正芳首相が訪中(第2回 5日間)
1980年07月17日 鈴木善幸内閣発足(田中角栄元首相が強く支持)
1982年09月26日 鈴木善幸首相が訪中(第3回 7日間)
1982年11月27日 中曽根内閣発足(田中角栄元首相が強く支持)
1981年01月20日 ロナルド・レーガン大統領就任(共和党)
1981年06月29日 華国鋒は党主席をも解任、胡耀邦が党主席に就任
1983年11月     胡耀邦党主席が訪日では昭和天皇と会見、日中友好二一世紀委員会設立
1984年03月23日 中曽根康弘首相が訪中(第4回 4日間) 第2次円借款を決定
1985年02月07日 田中派の中で竹下登を擁立する派中派の「創政会」結成
1985年02月27日 田中角栄元首相が創政会に憤慨して激しく抑えつけたが、直後に脳梗塞で倒れた
1986年11月08日 中曽根首相が訪中(第5回 2日間)日中青年交流センター定礎式
1986年09月 八大元老(鄧小平)と保守派の巻き返し、胡耀邦の政治改革は第13期6中全会で棚上げ
1987年01月16日 胡耀邦が失脚(鄧小平の支持を失う)趙紫陽が総書記代理に就任
1987年11月2日  趙紫陽が総書記に就任
1987年07月04日 田中派(木曜クラブ)から120名が脱退して、竹下派(経世会)結成
1987年11月06日 竹下内閣発足
1988年08月25日 竹下登首相が訪中(第6回 6日間)
1988年08月     李鵬が総書記に就任
1989年01月20日 ジョージ・H・W・ブッシュ大統領就任(共和党)
1989年04月15日 胡耀邦 死亡(73歳没)
1989年01月07日 昭和天皇の崩御に伴い皇太子明仁親王が第125代天皇に即位(平成元年)
1989年04月25日 竹下登首相辞意(佐藤派→田中派→竹下派)(リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した)
1989年06月03日、宇野内閣が発足(中曽根派ナンバー2)(竹下裁定)
1989年06月04日 六四天安門事件 中共(鄧小平ら)は民主化を求める数十万人の一般市民を武力で弾圧し、虐殺
1989年06月23日 趙紫陽が党の全職務を解任され自宅軟禁下に置かれた(鄧小平の支持を失う)
1989年06月24日 江沢民が総書記に就任(鄧小平の支持)
1989年06月     G7(米、英、仏、日、独、伊、加)制裁(首脳会談を停止、武器輸出を禁止、世界銀行融資停止)
1989年07月     日本の宇野宗佑首相(中曽根派)は「中国を国際的に孤立させない」という方針を打ち出す
1989年08月10日 海部内閣が発足
1989年10月     次期総選挙への田中角栄元首相の不出馬が発表される。
1990年01月24日 衆議院解散により田中角栄元首相議員を引退
1990年07月     日本の海部俊樹首相が対中円借款の再開を表明、訪中
1991年08月10日 海部俊樹首相が訪中(第7回 4日間)
1991年11月05日 宮澤内閣が発足
1992年08月     田中角栄元首相が中国政府の招待で中国訪問
1992年08月     中共は日本に対し天皇陛下の訪中を要請。宮澤喜一内閣は日本国内の反対を押し切って要請を受け入れる
1992年10月     天皇陛下の訪中(多大の苦難を与えた不幸な一時期)
1993年01月20日 ビル・クリントン大統領就任(民主党)
1993年08月09日 細川護煕内閣(日本新党他連立)が発足、自由民主党が下野
1994年03月19日 細川護煕首相が訪中(第8回 3日間)
1994年04月28日 羽田内閣(新生党他連立)が発足
1994年06月30日 村山内閣(日本社会党・自由民主党他連立)が発足
1995年05月02日 村山富市首相が訪中(第9回 5日間)(戦後50年談話で侵略を認めた)
1996年01月11日 橋本龍太郎内閣(自由民主党)
1997年         江沢民が訪米しクリントン大統領と会談
1997年09月04日 橋本龍太郎首相が訪中(第10回 7日間)
1998年07月30日 小渕内閣が発足
1998年 クリントン大統領が訪中、対中制裁は解除
1998年11月     江沢民国家主席が中国の国家元首として初めて来日、天皇陛下主催の晩さん会で日本の歴史教育を批判

キッシンジャーはいわゆる力の均衡論者で、イデオロギー的な外交を嫌い冷徹なまで国家間の力が均衡に保つことに腐心したという。
つまりキッシンジャーは、中国が民主化するかどうかはどうでもよく、まず自分達が儲かればよいと考えていたのだろうか。

金権政治の代名詞である田中角栄元首相が成し遂げた日中国交正常化は、アメリカを出し抜いたところ(ニクソン大統領が激怒)がありロッキード事件へとつながる。

田中角栄元首相とその系譜につながる人脈は、中国が民主化するかどうかはどうでもよく、まず自分達が儲かればよいと考えていたのは歴史が示している。
天安門事件が起きる前から、日本には金権政治一派があり、容易に賄賂やハニートラップで中共に切り崩される体質であった。

田中角栄元首相の人脈である、田中派、そこから分裂した竹下派、田中角栄元首相の支持を受けた中曽根派は、歴史的に中共と極めて親しい関係にある。
竹下派の流れを汲む小沢一郎議員一派、またその流れを汲む二階俊博議員一派も中共と極めて親しい関係にある。
日中の政治家の関係は、日本から中共を訪問するほうが多かった。
日本からは見えない中国の内だから、容易に賄賂やハニートラップを受けてしまう。

日本のODA資金は、中共への投資であり、日本からの進出企業とこれら政治家には金の生る木であった。
中共へ進出した大半の日本企業は利を求めているだけであり、世界的な自由や民主主義の普及を求めていない。

胡耀邦と趙紫陽が、鄧小平の寿命を考えてもっと慎重に自由化と民主化を進めていれば、本当に良い国になっていたはず。
しかし、現実は、陰の支配者、長老の鄧小平の支持を失い彼らは失脚した。
鄧小平は、自由化と民主化の利点を理解することができなかった。
この二人が消された時点で中国の自由と民主は消滅していた。
残ったのは共産主義の核心である独裁の覇権主義だ。

天安門事件の発生後、中共が世界からの孤立を防ぎG7の切り崩しをするとすれば、地理的に近いしかも英語がへたくそで他国と連携できない日本を狙うのが合理的である。

狙われた宇野宗佑首相(中曽根派)も海部俊樹首相も実権のない短命の内閣であった。

そして、2020年の今、世界は中共発の問題ばかりで悩まされている。新型コロナウィルスの蔓延であり、香港国家安全維持法やチベット・ウイグル、インドとの国境紛争、南シナ海でのベトナム・フィリピン等周辺国との対立、日本の尖閣諸島への侵略的挑発、なにより台湾への恫喝。

何の権力もない日本の庶民としては、外部からの中国の自由化と民主化を諦め、独裁覇権主義に感染しないよう距離をとり、遺憾砲を打つのが良さそうだ。

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